善本知孝オフィシャルホームページ 本文へジャンプ
少年時代と戦争
 
1、少年時代と戦争1(満州事変-ピカピカの1年生)



 講演会場(2015年6月1日撮影)

私は今85歳、この頃の政治家は60歳台のせいか、簡単に戦争の話をします。

「いい戦争はない」と思っている私には気になります。
85歳の私の少年時代がずっと戦争だったせいでしょう。

そこで「その時の経験を話そう、戦争にいい戦争はないのを伝えよう」と思い立ちました。
(今語られている、戦争が起きても、私は他界にいるので、余計なお節介ですが。)

そこで30年来の知己である奥信濃(野尻湖近辺)の社長に話したところ了解してくれました。
例年1回ほどしている恒例の話の話題を専門の話題から、戦争の話にしてもらったのです。


私は昭和5年(1930)生まれ、少年時代の思い出が戦争の話になります。

最初が昭和6年の満州事変。次が昭和12年の支那事変、
昭和16年が大東亜戦争(小学6年生)、
そして昭和20年が15歳(1945)で太平洋戦争敗戦の年、中学4年です。

戦争は大人の仕事ですが、子供にも大きな影響を与えました。
決して「楽しい思い出」ではありませんが、それを少しでも多くの人に知ってもらいたかったのです。

戦争は人間の性のようで、なかなか避けられません。

しかしそこには経験した者でないとわからない側面も多々あります。
その経験をした生存者は私の年齢前後数年間に生まれた人だけです。

今政治をやっている人は全く知らない。だから彼らは気軽に考えているように私には思えて仕方がありません。
戦争は少々の我慢をしても避けた方がいいと想います。
(以下は長野県信濃町のパワフル健康食品株式会社で社員と若干の町民数十人の前での講演です)。




少年時代と戦争1(満州事変-ピカピカの1年生)


私には昭和6年の満州事変の記憶はありません。
数えで2歳だから無理もないといえるかもしれないけど、昭和8年今上天皇誕生時に鳴らされたサイレンは記憶にあるのに、満州事変に記憶がないのは残念です。


満州事変は日本の戦争の原点で、少しその話を勉強したから紹介します。

当時は帝国主義の末期。帝国主義とは強い国が弱い国に言いがかりをつけ、言うことを効かないと軍隊を派遣し、最後はとってしまう政策で、イギリスやフランス、オランダでさえ一時そんな政策をとり、国を豊かにしました。

しかし第一次世界大戦での余りの悲惨さに、世界の常識が変わりました。
ところがその戦争に参加せず、遅れて国際舞台に登場した日本は日露戦争に勝った余勢もあり、
遅れた帝国主義政策をとったのが満州事変でした。国策というより、陸軍一部の暴走で始まったようです。



もう少し詳しくいいますと、国際連盟が、治安の悪い国の領地は国に属せず、他の国が一時、統治するという制度を決めたので、日露戦争のあと、(満州の一部遼東半島は中国領でしたが)日本が委任統治国になっていたのです。

それを満州事変当時支那(中国)に統治能力がないから、日本が代わるという名目で支配力をひろめ、南満州に広く領地を拡張しようとの目論見が日本陸軍を中心にあったので、深い策略をたて柳条湖での中国とのトラブルを好機として、一気に南満州の都市を占拠しました。1931(昭和6年9月18日夜)のことで、南満州鉄道線路の一部爆破を契機に周到に準備された作戦を実行したそうです。わずか1日で南満州の要衝であった瀋陽・営口・長春など18都市を占拠しました。


これが満州事変のすべてといえるほどの速攻でした。


日本の本土が小さく、農地が狭く、資源もないという事情もありました。
でもそれが不幸の始まりとは当事誰も考えなかったでしょう。(私の小学校の地図に満州国は日本より赤い色が塗ってありました)


満州事変は支那人の意志でやったので、日本は日本人の安全のため戦かったというのが、日本の主張でしたが、1932年2月国際連盟の調査で、日本の主張は認められず42対1で否決、それが契機で3月日本は国際連盟を脱退しました。



初期の電撃作戦で目標の殆どを達したので、以後余り戦争らしいものがなかったようです。その中で目立ったのは、1933年の熱河作戦で、今思えば日本を泥沼の戦争に引きずるこむ引き金になりました。熱河はソ連と中国と満州の境目にあり、そこを支配するのが中国・ソ連にも重要問題だったのです。勿論支那は猛烈な抵抗をしたし、ソ連を中心とした国際世論の反撃も買いました。結局は日本(満州)が勝ったのでしたが、それは日本に更なる戦争、つまり日支事変をする契機になったのです。


満州事変の契機、鉄道爆破も日本の自作自演の事件だというのが今の通説です。



私の満州事変の最初の記憶は小学校へ行ってからです。昭和11年4月、1年生になりました。確か1年生の終わりのとき、同級生の長谷川節子さんが満州に行くのをみんなで祝いました。彼女は幼稚園も一緒だったように思います。満州へ行くのは東北の貧農か、満鉄での豊かな暮らしに憧れた家族で、彼女は後者だったでしょう。


日本が得た利権を根拠に、国民は満州へ行けば生活がよくなるとの噂を信じました。長谷川さん両親も多分それにのったのでしょう。事変開始時2歳だった私も当時は6歳、5年もたって満州も落ち着いたのでしょう。その見かけの落ち着きの余波をかぶった女の子、長谷川さんが現れて、私が戦争の時代にうまれたことを肌で感じさせられた訳です。



このころ政府の口車に乗せられ,良い生活を夢見て多くの人が満州(今の中国黒龍江省と思えばいい)に渡りましたが、彼らは敗戦時の故国への引き上げで途端の苦しみを味わったのは有名です。例の「引揚者」と呼ばれた人人の被害がそうでした。長谷川さんはどうなったでしょうか。消息は聞いていません。


少年と戦争 2へ  TOPページへ戻る
 

Copyright (C) 2010 .yosimototomotaka. All Rights Reserved.