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少年時代と戦争
 
5、少年時代と戦争5(大東亜戦争―空襲・敗戦)




敗戦で天皇に詫びる国民,8月16日 私もその一員だった


 1944年6月に米軍はサイパン島に上陸していました.丁度その日、中国の成都から北九州をB29は爆撃したのです。この事実はサイパンからなら日本の本土爆撃も可能だというデモンストレーションになったわけです。


1944年11月24日にはサイパンを基地とするB29の東京初空襲がありました。以後定期便のようにB29はやってきました。被害が余り感じられなかったので、それは一種のショウでした。1万メートルを飛ぶB29,そこまで届かない高射砲の玉、偶には日本の戦闘機がそこまで飛んでいき、空中戦をやるのですが、戦闘機が落ちていくのが通例。美しい青空が今もおもいだされます。当初はこんなでした。

母が死んだ20年1月18日はこんな状態でした。
実は米軍はこの時本格的爆撃の下調べをしていたのだというのは敗戦後知ったことです。B29が来そうなとき、「警戒警報」が発令され、いよいよ来ると「空襲警報」が出て、いつ爆撃されるかわからなくなるのですが、爆弾が当たる確率は少ないから、当初は寝ていました。「スルスル」と音がして何処かに落ちるのです。当たる悲劇は宝くじ以下と思っていました。その効果が限られたものだと、米軍が知り、作戦を変えて、爆弾ではなく焼夷弾を使うようになり自体は変わりました。

焼夷弾は火薬ではなく油がはいっていて燃焼を目的にするものです。少量の筒を束にして落ちてくる途中に束が解け、ばら撒かれる仕掛けです。少しの火薬の入った爆弾と延焼を目的とした焼夷弾を米軍が使うように、なり状況は一変しました。木造建築の火事を起こさせるのです。これは民間を目的で戦争のルール違反ですが、当時はそんなことを言っている余裕はありません。


この方法を最初に使ったのが3月10日の下町爆撃でした。私の家は20キロも離れた山の手ですが、遠く東の空が赤くみえるほど、大火災も高みの見物。次の日から同じ形の爆撃がB29により繰り返され、順番に東京の端から燃え、焼け野原になりました。そして工場が燃えたのは5月下旬、私の家は大きなバス通りが延焼を食い止め残りりました。芝中学も3月10日に燃えてしまいました。
動員先の萱場製作所も5月には空襲で燃えてしまったのです。私は行き場を失いましたが、どうしろと先生の指示はなく、きりののない休暇が始まりました。



                   無残な線路(「痛恨の昭和」から)


私は父の指示で、山口県の岩国にある父の実家へ行ってみることになりました。20時間はかかる鉄道の旅ができるか、それができたのです。勿論まともに列車が走る筈はありません。

うつろな記憶ですが、爆撃されるというので、ブラインドは下ろしっぱなし、空襲より、日本中が燃えたのを軍部は見せたくなかった方の理由がおおかったのでしょう。また東海道線だけを使って走ったのでなかったようでした。例えば静岡から豊橋まで、二俣などという、まったくの田舎路線も使いました。24時間かかって、山口県まで行けたのです。叔父さんと弟には会えました。そこで1ヶ月は暮らしたでしょうか。東京より飯は豊富でした。

当時の東京の食生活はオジヤが中心、ただしその中に芋のつるやカボチャのつるもはいっていました。勿論実などそれ以前になくなっていました。オジヤ、当時は雑炊と言っていましたが、それをどんぶり一杯食べれば上等、私の友木村など何とか2杯ありつこうと、あの手この手を使っていました。

毎日川で泳ぐ以外することがないので、さすが居候でも東京へかえりたくなりました。帰れるか、5月にきたのが7月上旬になっていました。帰路広島を通ったのは7月6日の数日前でした。弟は岩国から1里奥にはいった御庄で、きのこ雲をみたそうです。

帰京後、行くところがないから会社へ行く毎日でしたが、そこは焼け跡でしたから、友達や会社の伯母さんと喋る毎日でした。戦争が勝ってるか、負けてるかが主な話題でした。勝ってる筈はないのに、負けてる筈もないと信じてたから結論なし。広島に落ちた新型爆弾が長崎にも落ち、今までにない被害が出たと知らされる程度で、米軍上陸の話もでたけれど、それも竹やり訓練には繋がらず、すべてが実感のないものでした。竹やりは当時でも有名でしたが、実際には目でみたことはありません。

そうこうする内に8月15日には天皇の話があるから、昼第二工場に集まるように先生に言われました。何を喋られるか、同級生の意見は二つに分かれ、私と木村が戦闘継続命令、外人ぽい青木が敗戦派と二つに分かれ、青木は自信があるらしく、負けたら殴ってもいい、といいました。そして終戦の詔書。翌日私と木村は宮城前(当時は皇居とはいわなかった)広場の玉砂利に座り、天皇陛下に敗戦のお詫びをしました。
当時はそんな雰囲気だったのです。


追伸

我々は戦争のことを正しく知らずに少年期の全てをささげました。

もとを正せば満州の不自然な占拠が問題でしょうが、それ以後も日支事変(対中国戦争)という目的の不明確な戦争、大東亜戦争(第二次世界大戦)中の虚偽な報道、それは勝敗さえ不明確なまま到来した敗北と続きました。

戦争は不可避な経過だったにしても、少年にとっては、東京爆撃、ミドウエイ海戦の敗北、ガダルカナルの撤退、沖縄の陥落、新型爆弾の落下など、不正確な報道にもとづいて続けられた戦争が大きな問題です。戦争は政権に都合の良い形で始まリ、続くものだとの想いが強く残りましたし、そんな戦争は繰り返してはならない、と死を前にした今、つくづく想います。


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